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 自己紹介


←こんな感じの数学教師です(これは生徒が書いた似顔絵)。
「自然な発想と自然な解釈」「概念の本質的な理解」をテーマに授業研究、教材開発、プリント作成に励んでいます。

2014年1月28日の朝日新聞(奈良版)の朝刊で奈良高校の特集記事が載り
その中で「名物先生紹介」のコーナーで私が紹介されました。
「写真が真面目すぎて面白くない」
「どうせなら黒板の上によじ登っている写真を載せてほしかった」
などなど、多くの生徒から感想をいただきました(笑)
なお、2016年3月31日をもって公立高校を退職しましたので、
もう奈良高校にはおりません。

奈良テレビ放送「ゆうドキッ!」という番組で、 『学食ですよ!』というコーナーがあり、奈良高校に取材に来たことがありました。
どういう訳だか、僕の授業風景を撮影することになり、気合いを入れて授業したのですか・・・・

開始後1分後くらいに、僕の授業風景が一瞬だけ映っています。本当に一瞬です。 10分近く教室で撮影し、インタビューもされたのに放送はわずか数秒・・・・(笑)。 まあ、良い思い出ですね。


  奈良高校の学校新聞『宝相華』第201号
  (平成20年7月18日発行)
   
     奈良高校の学校新聞『宝相華』第207号
     (平成22年7月20日発行)

 学歴

 1972年(昭和47年)9月 奈良県五條市二見生まれ
 1979年(昭和54年)3月 五條市立二見保育所卒園(現在は廃園)
 1979年(昭和54年)4月 五條市立五條小学校入学
 1985年(昭和60年)3月 五條市立五條小学校卒業(木造校舎最後の学年)
 1985年(昭和60年)4月 私立智辯学園中等部(6年制)入学
 1991年(平成 3年)3月 私立智辯学園中等部(6年制)卒業
 1991年(平成 3年)4月 大阪大学理学部数学科入学
 1996年(平成 8年)3月 大阪大学理学部数学科卒業
 2003年(平成15年)4月 大阪大学大学院理学研究科数学専攻博士前期課程入学
 2005年(平成17年)3月 大阪大学大学院理学研究科数学専攻博士前期課程修了(理学修士)

 専門は整数論(代数的整数論と保型形式など)。 山本芳彦教授伊吹山知義教授に師事した。
 大学院入学当初から山本芳彦先生の下で学んできましたが、山本先生は長い闘病生活の末、平成16年9月にご逝去されました。 このとき私は修士2年で修士論文執筆の真っ最中でしたが、指導教官の突然の死去に伴い、急遽、指導教官が伊吹山知義先生へと 引き継がれることになったのです。 最終的に伊吹山先生の指導で修士号を取得しました。

その修士論文がこちら。せっかくなので調子に乗って製本までしてしまいました。

山本先生から「学会発表しなさい。教師に戻るならハクがつくだろうから」と言われてましたが、 結果、約束を果たせずに現在に至っています。そんな中、同じ山本先生門下の 小川裕之氏に以下の論文を発表していただきました。この中で私の研究の一部が紹介されています。 今となっては「こんなことをやってたっけ?」という感じですが、その当時は 本当に一生懸命に勉強しました。私が真剣に勉強したのは、大学受験時代と大学院時代の2回だけかもしれません。

 職歴

 1996年(平成 8年) 4月~2000年(平成12年)3月 奈良県立十津川高等学校教諭
 2000年(平成12年) 4月~2005年(平成17年)3月 奈良県立吉野高等学校教諭
                   (※平成15年4月~平成17年3月 大学院修学のため休業)
 2005年(平成17年) 4月~2016年(平成28年)3月 奈良県立奈良高等学校教諭
 2016年(平成28年) 4月~       私立帝塚山中学校高等学校専任教諭
 2021年(令和 3年)10月~2021年(令和 4年)3月 大阪大学非常勤講師
 (※2021年12月16日 大阪大学にて「企業研究者特別講義・将来展望論B」の講演を行う)

 私は、授業のとき、あまり教科書は使いません(念のため断っておきますが、教科書は複数の出版社のも合わせて すべて目を通しています)。「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」という姿勢のもと、 自分なりのオリジナルな流れと発想で授業を構成しています。
演習の授業でも同様に「その問題を教える」のではなく「その問題で教える」という姿勢を貫いています。 本当に教えたいこと(いわゆる数学の本質的な部分)は別にあって、それを伝えるために、 その問題を利用しているだけなのです。 同じ問題は2度と出題されないのだから(まあ、最近はそうでもないけど・・・)、 その問題の解き方を教えてもあまり意味がありません。その問題から何を学ぶか、 その問題を通して何を生徒に伝えたいのか、を、我々教員はもっと真剣に考えるべきだと思います。

高校3年時に担任した生徒の大学進学先

国公立大学の現役合格のみを紹介します。たまたま生徒に恵まれただけです。 みんなよくがんばりました。すごい!

 大学院時代の思い出

 大学院での恩師、 山本芳彦先生からは、教師として生きていくために必要な「とても大切なこと」を、命がけで教わったと思う。

 私は30歳のとき、思うところがあって、教職を一時休職して大学院へ進学した。 もちろん、現役の大学4年生に混じって大学院入試を受けた(数学の筆記テスト2回に英語、 それと口頭試問があった)。
 山本芳彦先生を指導教官に選んだ理由は、もちろん整数論に興味があったことはもちろんだが、 当時、山本先生が高校数学の教科書を執筆されていたことが大きい。高校数学を教える身にとって、 教科書の執筆者から指導を受けることで、大学数学だけでなく高校数学に関しても何か学ぶことが あるのではないか、と考えたからだ。山本先生に、私が現職の高校教師で、大学の数学から ずいぶん遠ざかっていることを話すと、「じゃあ、週4回セミナーをやりましょう。」と おっしゃった。数学科出身の人なら分かってもらえると思うが、 週4回のセミナーなんて絶対にあり得ないことである。 通常、セミナーは週に1回程度で、1週間かけて勉強してきたことを先生や他の学生の前で 順番に発表するのだが、週4回ということはほぼ毎日、しかも学生は私一人だけだったので、 毎回一人で発表するのだ。「ああ、僕の出来が悪いから、わざわざ時間を取って指導して くださっているのだ。ありがたいことだ」と受け止め、寝る間を惜しんで必死に勉強した。
 「発表するときは何も見てはならない。」と山本先生はおっしゃった。 つまり、本やノートを見ずに黒板の前で勉強してきたことを話せ、というのだ。当然、先生も 何も持たずに手ぶらでセミナーに来るのだが、私が少しでも曖昧なことを言ったり、内容を 誤魔化そうとしようものなら、「そんなことは書いてなかっただろう」と容赦なく突っ込まれた。 なので、セミナーの準備は本当に大変で、最初の半年くらいは夢でうなされるほどきつかった。 このセミナーでずいぶん鍛えられたと思う。自分の頭の中で構成し、何も見ずに発表する、という スタイルが、現在の自分の授業スタイルの基盤となっていることは間違いないと思う。

 さて、月日が経って、セミナーの準備にも徐々に慣れてきて、それほど苦にならなくなってきた。 修士2年になり研究内容も徐々に形になってきた矢先、山本先生が入院された。最初は検査入院という ことだったが、退院しても自宅療養であったり、またすぐに再入院されたり、と 大学に来られる日が少なくなってきた。セミナーも助手の先生に任され、回数も減った。一抹の不安を 抱える日々が続いたが、突然、山本先生から「病院でセミナーをやるから来なさい」と連絡が入った。 これには驚いた。「ほんまに大丈夫かいな」と思いながらも、大阪市内の病院を見舞い、 病室の枕元で先生の教えを受けた。また自宅療養に入ると「自宅でセミナーをやるから来なさい」と 言われ、今度はご自宅のある兵庫県三田市まで電車を乗り継いで向かった。私が恐縮して伺うと、 山本先生は「私自身も、大昔に、志村五郎先生の自宅の座敷で、膝を突き合わせて数学を 教えてもらった。同じようなものだ。」とおっしゃった。 このように病院や自宅でのセミナーが何回か続いた。
 平成16年9月23日。この日も先生の自宅で数学を教えてもらった。このときは、すでに 病がかなり進行して、車椅子で、酸素ボンベで呼吸し、右目が見えず、耳が聞こえず、という 状態だった。数学の質問は筆談でなされた。それでも数学を教える気力は衰えておらず、 的確なアドバイスを受けた。「また来週、来なさい」と言われて、自宅を後にした。
 3日後の平成16年9月26日に山本先生はご逝去された。
 

 山本先生と過ごした1年半を振り返ると様々な思い出がよみがえるが、やはり死の直前まで指導を受けたことが、 何にもまして感動的であった。死んでしまったのに「感動した」というのは不適切な表現かも知れないが、 死ぬ直前まで数学への熱意を弱めず、 最後の最後まで「教える」ということに情熱を持ち続けた姿に「感動した」のである。
 実は、山本先生は私が大学院に入学する前から大病を患っていて、かなり深刻な状態であった。 体力的に厳しいにもかかわらず、週4回ものセミナーを強行したのは、今から思えば、 ひょっとすると自分の死期を悟っておられて、自分が存命の間にできるだけ多くのことを学生に 伝えなければならない、という強い使命感があったからなのかもしれない。
 数学では足元にも及ばない存在であったが、片や大学数学に、片や高校数学に身を置く 同じ「教育者」という立場で考えたとき、命を賭けて何かを伝えようとする姿を 目の当たりにした最後の学生として、山本先生の意思を受け継ぎ、 今度は自分が全力で生徒に数学を伝えていくことが、先生への何よりの恩返しになると考えている。
 大学院での2年間は私自身の教育観を大きく変えるものとなった。

 後日談だが、山本先生の死後、奥様から1冊の手帳を形見分けにいただいた。生前、山本先生が 「自分が死んだら赤阪君に渡すように」と伝言してあった手帳らしく、中にはおびただしい計算メモが 記されていた。最後の方は解読できないほど字が乱れており、病との闘いの凄まじさが感じられた。

 音楽と教育の関係について思うこと

 「教師と生徒の関係」と「指揮者と楽団員の関係」はとても似ているような気がする。
 教育の現場では、実際に活躍するのは生徒で、生徒が個性を発揮し活躍しやすいように支援するのが教師の役目であり、 オーケストラの現場では、実際に音を発するのは楽団員で、全体の調和やバランスを考えて音の調節をし、 楽団員から最高の音を引き出すのが指揮者の役目である。
 名指揮者カラヤンはオーケストラの指揮を乗馬に例えて次のような名言を残した。
 「オーケストラを"drive"してはならない。"carry"せねばならない」と。
 "drive"とは、馬を車の運転のように操作して、自分の意のままにコントロールすることを意味し、 "carry"とは、手綱は自分がしっかりと持ち、馬が暴走しないように要所要所は引き締めるものの、 あくまでも主体は馬であり、馬に自分の身を委ねることを意味している。
 この言葉は、そっくりそのまま教育にも当てはまると思う。
 あくまでも主体は生徒であり、生徒が自由に伸び伸びと活動して目的を達成するのだが、 実際には裏で教師がちゃんとコントロールしていて、生徒はそれに気づいていないという状態が望ましいのではないだろうか。

 カルロス・クライバーのような教師になりたい

 カルロス・クライバー(Carlos Kleiber,1930-2004)とは知る人ぞ知る伝説の名指揮者。 「カルロスクライバーのような教師になりたい」っていきなり何をわけのわからんことを言っているのか、 とお叱りを受けるかもしれないが、本当に私は「カルロス・クライバーのように授業がしたい」と思うのである。
 まずは、1986年の日本公演での指揮姿を見てほしい。
 なんという自由奔放な指揮ぶりであろうか。手をプロペラように振り回しているだけで、しかも、曲の後半は 手を下に下ろし指揮するのを止めてしまっているのに、どうしてあんなに生命力のある音楽がうまれるのか。 指揮者とオーケストラの信頼関係なくしてはあり得ない演奏である。
 この映像は当日の2曲目のアンコールである。1曲目のアンコールで「こうもり」序曲を演奏したあと、鳴り止まない 拍手に応えての2曲目のアンコールであった。指揮台に上がるなり、客席に向かって指揮棒を突きつけ「ニヤリ」と 悪魔的は微笑を見せてスタート。あとはッジェットコースターに乗っているがごとく曲が進んでいく。 指揮者とオーケストラ、観客がまさに一体となった演奏で、最後は万雷の拍手。
 この映像だけを見ると「単なる派手なパフォーマンス」と捉える人もいるかもしれないが、そんな人はクライバーの リハーサル風景の映像を見てほしい。派手な本番とは裏腹に非常に緻密なリハーサルを行っているのがわかる。 注目すべきはその表現方法である。「フォルテで」とか「クレッシェンドして」とか、 楽譜に書いてあることをなぞるような指示は一切していない。 奏者の感性に訴えかけるような詩的な言葉と表現を多彩に駆使して、音楽を創っていく様子がうかがえる。
 このような姿に授業の理想像を重ね合わせてしまうのは変であろうか。 教科書に書いてあることをそのままなぞるだけのマニュアル的な授業ではなく、 イキイキとして数学の本質を伝える教師になりたい。

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